ディスカバー北海道

ヒストリー
-HISTORY-

小樽は北海道の中でも歴史の古い町です。特に北海道開拓史や、北海道の発展について語る際には、小樽の歩みは切っても切り離せないものです。一体どういうことなのか、小樽の歴史を紐解いていきましょう。

(写真提供:小樽市総合博物館)

ニシン漁

古くから運上屋(うんじょうや)があり、主に鮭やニシンといった海産物でもって、アイヌとの交易も盛んだったという小樽。18世紀後半ともなると、大量のニシンの漁獲があったと文献に記されています。やがて明治時代になると、ニシン漁は漁法の改良や機械化の導入により、小樽地区はピークで年間9万トン近くもの漁獲高をあげるようになります。
東北地方からの出稼ぎとして、農家の男衆が漁夫となって小樽に集結しました。そうした漁夫たちの宿舎兼作業小屋として番屋が建てられ、その大きさと立派さから後に「鰊御殿」と呼ばれるようになりました。

(写真提供:小樽市総合博物館)

道内初の鉄道

小樽が飛躍的な発展を遂げるのは、なんといっても明治時代です。明治政府は、札幌を北海道開発の拠点として定め、小樽をその供給基地にしようと考えたのです。当時、道央や空知地方では、良質な石炭が多く発見されていました。この石炭を小樽へと運び、さらには小樽から船で本州へと運ぼうと計画。1880(明治13)年には石炭を運ぶため、手宮~札幌間で北海道初の鉄道が敷かれました。まさに小樽は物流の拠点となり、経済都市へと発展していくための礎を築いたのでした。
※手宮は、現在の「小樽」駅から北東に1.5㎞ほどの場所

(写真提供:小樽市総合博物館)

100年以上前の防波堤

小樽が北海道の玄関口として発展すると、大型船が入港するようになります。港内に錨を下ろした大型船から荷物や人を運ぶ艀が岸壁との間を行き来していましたが、港が隆盛となると入港船が増え、それに伴い艀の数も増えていきました。やがて荷下ろしをする岸壁が足りなくなり、その解消のために大正時代に運河が作られることになりました。これが現在観光スポットとして人気の「小樽運河」です。

一方、小樽港を守る防波堤の工事も行われ、それと並行して国産のコンクリート実験も進められました。紆余曲折を経て、とうとう北海道の火山灰を混ぜたセメントなら強度が増すことを発見。1897年に工事をはじめ、1908年に、ようやく北防波堤が完成します。北防波堤は何度かの改修工事を経ましたが、今なお現役です。そして言うまでもなく、北防波堤が完成したことにより、小樽の海運や漁業がますます隆盛を極めていったのです。

現在も残る旧日本銀行小樽支店

発展と衰退の末に

港を中心とした商都として好景気に湧く小樽に、経済界も注目せざるを得ませんでした。1879年に三井(現 三井住友)が出張所を開いたのを皮切りに、日本銀行小樽支店、三菱(現 三菱UFJ)、第一(現 みずほ)、安田(現 みずほ)といった大銀行が後に続きます。大正時代末には、25行もの銀行が小樽市内で営業していました。その結果、明治初期には2,000人にも満たなかった小樽の人口は、1920年に発表された第1回国勢調査によると、なんと10万人超にも膨れ上がっていました。これは全国で13番目に多い人口で、北海道内では函館に続く2番目でした。しかし昭和30年代に入ると、国のエネルギー政策は石油に転換。大手の石炭、貿易、船舶会社の撤退が相次ぎ、小樽は斜陽の時代を迎えます。
その後、市民を中心に巻き起こった「運河保存運動」などを経て、今や小樽が観光都市として見事な復活を遂げているのは、周知の事実。かつて銀行だった建物も、レトロな雰囲気で町に溶け込んでいます。

【取材協力】
小樽市総合博物館
北海道小樽市手宮1丁目3番6号
https://www.city.otaru.lg.jp/simin/sisetu/museum/