ディスカバー北海道

旭川家具
-ASAHIKAWA FUNITURE-

なぜ旭川で家具がつくられるようになったのか

「旭川家具」は、一つの家具メーカーではなく旭川市とその近郊で製造される家具を総称したブランド名です。 家具づくりは、旭川を代表する産業の一つです。旭川市の産業出荷額のうち、家具や木材・木製品は合せて約11%、約232億円もの産業になります。 では、なぜ旭川が家具づくりが盛んになったのでしょう。はじまりは、いまから120年余り前、1890年(明治23)に旭川村が誕生し、そこにできた木挽場が木を暮らしに生かそうとした始まりでした。 やがて、明治末期に第七師団(陸上自衛隊)が設置されたことをきっかけとして、街や建物をつくるために本州各地から優れた腕を持つ大工や家具・建具職人が移住してきました。さらに、北海道の真ん中という交通上重要な立地のため、鉄道開通によって貨車や客車の製造・修理をする工場ができ、多くの職人が移住してきました。

町の発展とともに主要産業に

町が発展すると共に、軍隊があったことで椅子やテーブルなどの西洋家具が必要とされたようです。家具産業がさらに盛んになったのには地域政策が関係しています。1914年(大正2年)の秋、旭川は大凶作に見舞われました。当時は、農業と商業が主な産業であったため、経済的に大きなダメージを受けました。そこで、地元にふんだんにある木材を活かそうと、木工技術を教える木工伝習所を設置するなど、いろいろな政策を実施しました。また、企業や職人たちも木工業を発展させようと熱意をもってまとまっていきました。 そうして、木工業の技術はぐんと高まり、深く森林に囲まれ、良質材を持ち合わせていた旭川は、夢と志を持った職人たちによって、家具の町として成長していきました。しかし第二次世界大戦がはじまると、家具産業の成長は、一時中断することとなります。

世界に知られるブランドへ

第二次世界大戦後、伸び悩んでいた旭川の家具産業でしたが、札幌などで進駐軍の宿舎や娯楽施設の建設が始まると、旭川家具に多くの受注が割り当てられるようになり、徐々に回復していきました。1955年(昭和30年)には、旭川が木工産地として発展していくために、盛り上げていこうと企業が集まり「旭川木工祭」が開催されました。当時は、このような産地で開催される大きな展示会はなく、とても斬新なイベントでした。その後、「旭川家具産地展」、昨年からは「ASAHIKAWA DESIGN WEEK」へとリニューアルされ、バイヤーやコーディネーター等のプロユーザーはもちろん、一般来場者も楽しめるイベントとして受け継がれています。 培われた高い技術に加え、良質な木材とデザイン性を追求した『旭川家具』は現在では、世界最大級のイタリア「ミラノ・サローネ」やドイツの「ケルン・メッセ」などの国際家具見本市にも出展され、世界に知られるブランドになりつつあります。