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優駿のふるさと日高
-HIDAKA-

?優駿のふるさと 日高

足の速い特別に優れた競走馬のことを『優駿』と言います。
実は日本の競走馬の大半を生産しているのが、北海道の中央南西部に位置し、日高町(ひだかちょう)、平取町(びらとりちょう)、新冠町(にいかっぷちょう)、新ひだか町、浦河町(うらかわちょう)、様似町(さまにちょう)、えりも町の7つの町で構成されている日高地方です。約1,000の競走馬の牧場があり、約20,000頭もの馬がいると言われています。実に国内生産頭数の約80%を占める全国一の軽種馬生産地として「優駿のふるさと」とも呼ばれています。
日高地方の競走馬については、映画化もされた宮本輝氏の小説『優駿』にも描かれ、1960年代の競馬ブーム以降、数多くの名馬を世に送り出して来ました。

いろんな種類の馬

馬というと、競馬のサラブレッドを想像される方が多いかと思いますが、一括りに馬といっても、さまざまな種類の馬がいます。大きく分けると軽種、重種、中間種、在来種の4つの種類に分類されます。

・軽種(サラブレッド種やアラブ種、アングロアラブ種など)…競馬などで活躍。400kg~500kgのスリムな馬で一番目にする機会が多い種類かもしれません。
・重種(ペルシュロン種、ベルジャン種、ブルトン種など)…力仕事が得意で、800kg~1tを越える大型馬。札幌の市街地を走る「札幌観光幌馬車」を引くのは、ペルシュロン種。また、ばんえい競馬の馬も重種馬です。
・中間種(トロッター種・クウォーターホース種、ハウニー種など)…乗馬や馬術に適した種類で、軽種よりもがっしりとした体格で大人しく従順。クォーターホースはカウボーイが乗っている馬としても有名です。
・在来種(古来から日本にいる小型馬、和種馬など)…農耕馬や荷馬として活躍。洋種馬などの外来種と交配することなく現在まで残ってきた日本固有の馬。

馬の品種は世界では200種以上ありますが、日本の在来馬はわずか8種類しか現存しません。通称「ドサンコ」と呼ばれる北海道和種もそのひとつです。木曽馬(きそうま)・野間馬(のまうま)・御崎馬(みさきうま)・トカラ馬・宮古馬(みやこうま)・対州馬(たいしゅうば)・与那国馬(よなぐにうま)とあわせた全8種の現在の飼養頭数はわずか1750頭ほどです。このうち最も数が多いドサンコの現在の飼育頭数は、かつてに比べれば著しく減少しているとはいえ、現存する日本在来8種の中では格段に多く、約1,100頭が道南地方を中心に飼育されています。なお、最も少ないものでは対州馬が39頭と絶滅が危ぶまれています

※2016年データ 公営社団法人日本馬事協会 日本在来馬の飼育頭数の推移より

北海道に馬はいなかった!?

今でこそ全国一の軽種馬生産量を誇る北海道ですが、馬の産地としての北海道の歴史は、それほど古くはありません。もともと北海道には馬はいなかったのです。
「えっ!!ドサンコは?」と思う人もいることでしょう。
ドサンコは、もともと江戸時代にニシン漁で荷物を運ぶために東北から連れて来られた「南部馬」が、冬の時期に北海道に置き去りにされ、自然繁殖したものが始まりだそうです。置き去りにされた馬たちは群れを作って厳しい寒さをしのぎ、雪の中から餌を掘り出して生き延び、やがて寒さに耐えられるように毛も長くなりドサンコとなったのです
こうして北海道の風土に適した馬となったドサンコは、体は小さくても、首が短くて太く、200kg近くの荷物を乗せて運ぶことができました。造林地への苗などの物資・山奥への建築資材や電柱材料の運搬など北海道の開発に大きな役割を果たしました。

※19世紀初めに著された『松前志』や18世紀末に著された『東遊雑記』に、南部馬などの内地馬とはやや異なる資質を持つ蝦夷地の馬についての記事が見られることから、この頃には既に北海道和種が成立していたと考えることもできます。

北海道大学付属図書館提供

馬なしでできなかった北海道の開拓

「プラウ(鋤)」という、トラクターの原型のような土壌を耕す農具があります。
北海道では、明治になって西洋農法(プラウ農法)を導入しました。このプラウを牽引したのが他ならぬドサンコでした。農耕が軌道に乗ってくると、小柄なドサンコよりもさらに馬力のある大きな馬が求められました。1887年には、政府の奨励によって乗用場としてトロッター種、農用馬としてペルシュロン種など洋種が輸入され、ドサンコとトロッター種・ペルシュロン種の交配により大型馬「農用トロッター」が誕生しました。交雑種の農用トロッター、略して「農トロ」はドサンコに代わる農耕馬として農業効率を飛躍的に向上させました。
やがて、馬は交通や運搬手段としても利用されるようになります。馬車鉄道は、東京から遅れること15年後の1897年に函館で開業しました。その後、明治末期から札幌など北海道の各地で設置され、炭鉱、鉱山、農業に林業、土地の開拓など馬は交通・運搬に大きな役割を果たしていました。馬の存在なくして北海道の今はなかったかもしれません。
今では荷物を運ぶことが無くなったが、ドサンコは優しい性格から乗用馬として、ホーストレッキングや流鏑馬、ホースセラピーなど多くの場面で活躍しています。
現在でも、「北海道開拓の村」ではドサンコが牽引する馬車鉄道に乗ることができます。

北海道大学付属図書館提供

馬産地となったきっかけ

1872年新冠・静内(しずない)・沙流(さる)の3郡にまたがる約7万ヘクタールの広大な土地に「新冠牧場」が開設されました。当時の開拓使・黒田清隆によって、野生馬を2000頭近く集めて放牧して牧場としたのがはじまりです。新冠牧場は、全てが整備されるまでに約16年をかかっているが、この間に大きな役割を果たしたのが、開拓使が雇ったアメリカ人「エドウィン・ダン」でした。彼の設計によって、厩舎・官舎・見回舎・牧柵などの施設をはじめ、広大な飼料畑を開墾するなど、北海道馬産政策の拠点として近代的な西洋式牧場が整備されました。これにより優秀な種牡馬と進んだ管理技術が日高に導入され、北海道の馬産地としての基礎が築かれたといえます。最盛期には千数百頭もの馬が飼育され、すでに始まっていた横浜根岸での洋式競馬にも勝ち馬を送っていたそうです。

そしてもう一つが、戦争の影響です。
明治初期の日本産馬は、在来種のため小型のものばかりでした。日清戦争などで、欧米の馬と比較した際にあまりにも日本産馬がお粗末なことを思い知らされ、政府は馬政計画を立てて馬の改良に取り組み始めました。
第1段階として、全国3箇所(十勝、日高、奥羽)に種馬牧場を設置。1907年には浦河町に「農林省日高牧場」を開設し、洋種馬を導入して馬の改良を先導しました。
第2段階では、全国の馬産地を役種別に「乗馬産地」・「軽輓馬(けいばんば)産地」・「小格輓馬(しょうかくばんば)産地」・「重輓馬(じゅうばんば)産地」に分け生産奨励を行いました。日高地方は乗馬・軽種馬地帯として「サラブレッド、トロッター、アングロアラブ、ペルシュロン等」の生産が指定されたが、その中でも「重なる種の血統」として、第一位にサラブレッドがあげられました。その後、軽種馬飼育の技術や伝統、サラブレッド血統が戦後に引き継がれていき、今日の馬産地日高の基礎となっています。

JRA日高育成牧場提供

日本一の競走馬の産地

戦前から馬産地としての指定を受け、軽種馬が飼養されていた日高地方。しかし、戦前の軽種馬生産では千葉(下総御料牧場)や岩手(小岩井農場)には遠く及ばず、戦後もしばらくの間は全国に数ある馬産地の一つに過ぎませんでした。では、日高は、いつから日本一の軽種馬の産地となっていったのでしょうか。
そのきっかけは、戦後の競馬復興でした。1954年に中央競馬会(JRA)が設立。翌年には日本軽種馬協会(JBBA)が発足し、軽種馬生産の土壌があった日高地方は一気に競走馬生産のウエイトを高めていくことになります。1960年代には競馬ブームが起こり、競馬産業は未曾有の拡大を遂げました。

しかし軽種馬経営には、放牧地、牧草地、馬場など広大な土地が必要であり、北海道以外の馬産地では都市化の影響などを受けて軽種馬専業地域として成立が次第に困難になっていき減少していきました。その一方で、日高地方は戦前からのサラブレッド飼養の伝統が基礎となって、種牡馬選定や市場条件が有利に働き、一大産地として集積を高めるようになりました。また、サラブレッドは馬の中でも皮膚が薄く、暑さに弱いということも日高地方への特化を促した一因です。
近年の競馬の国際化では、高度な飼養管理・技術、関連施設、組織が求められ、種牡馬をはじめ獣医、装蹄、馬具、馬輸送、保険など関連するものが揃っている日高地方は、競走馬生産の集中地になり、「サラブレッド(優駿)のふるさと」として全国に名を轟かせるようになりました。
今や日高地方は、全国の軽種馬生産者の80%以上、軽種馬生産頭数の70%以上、種牡馬の70%以上を占めており、日本一の競走馬産地として日本競馬界の中心を担っています。

※公益財団法人ジャパン・スタッドブック・インターナショナル 2016年統計データベースより

【協力・資料提供】北海道日高振興局
【参考サイト】馬文化ひだか